2013年1月30日水曜日

『ダス・ゲマイネ』

太宰治が『晩年』で見せた自らの可能性を、改めて実証する旅がここから始まる。ここからは、太宰治が秘めた才能をコンパクトなミニチュア版ではなく、一つ一つ踏みしめて確実にステップを登っていく姿が伺える。とはいえまだこの当時、太宰の精神状態は異常であり、コンディションとしてはかなり悪かったと思われる。何かひょうきんな中にも暗さが垣間見えるのは、何もこの作品に限った話ではないが、その特徴がこの時期特に顕著である。

『ダス・ゲマイネ』は、ドイツ語のDas Gemeine(俗っぽさ)と、津軽弁の「んだすけまいね」(そんなだからだめなんだ)という音をかけているという。なんとも太宰らしい自虐的かつウィットに富んだタイトルであるが、内容は大学生の主人公とその仲間たちが甘酒屋の毛氈の上で出会い、語り合い、同人誌の発行を計画するといったかなり青春まっただ中の内容だ。しかしこれがまた暗い。

当時、私には一日一日が晩年であった。

のっけからこんな一文である。だがそれ以降の内容は至ってひょうきんである。馬場は口が減らないホラ吹きの自称音楽家である。バイオリンのケースを持ち歩いているが、誰も弾いているのを見たことがない。佐竹は絵かきで、彼は動物園でペリカンなどを描いている。佐竹は馬場がデタラメばかり言うので嫌いだと言っている。そして何故か小説家として太宰治が出てくる。なんだ主人公は太宰のことではなかったのだとここでわかる。結局は馬場と太宰が言い合いになって同人誌はご破産になる。言い合いの理由はというと、これがまたよくわからないのである。単なる言葉の応酬である。で、最後に電車にはねられて、主人公は死ぬ。

一見すると、全くよくわからない小説だ。主人公が死んだからといって、別に太宰が自殺を暗示していたとは思われない。だが太宰ファンのあいだでは一貫して人気が高い作品でもある。その気持ちは私にもよくわかる。ただ言葉が面白いのだ。登場人物の会話の中に妙に箴言、格言めいたものや、どこか軽率な考え、対して知りもしないのに訳知り顔で衒学を語るカッコつけた態度。そのくせなんにも芸術家としての力量もなければ、せっかく企画した雑誌もご破産になってしまうという体たらく。この小説は自称芸術家の滑稽さを思いっきり皮肉った作品で、自分もその中のひとりだというやはり太宰特有の自虐があったのだと思う。太宰治のすごさは、芸術に一生をかけて、全身でのめり込みながらも、どこかでそれを客観的に見つめ、冷笑しているところであろう。太宰にとって芸術とは至高にして最低の、言葉にならない、もう笑うしかないようなものだったのだろう。

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